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「学びの態度」について改める第一歩として、拙いながら体験の「外化」に取り組んでいます。 基本的には講義の内容の説明ではなく、感想と気づきの列挙になりますが、HCD/UXDに関しては出足の遅れた出来の悪い生徒であることを自認しているので、記憶の誤りや誤解があればご指摘ください。

【UX SHIGA 第3回】 ─調査の記述


【プロトペルソナの作成】
事 前の説明での「なるべく自分たちから遠い存在」という指示と、「"自衛隊"が使うバンドエイド」という例を深く考えずに受け取り、自分たちから自衛隊くら いまで遠くてもいいのか!と思いこんでしまった結果、エクストリームユーザー(実際にはエクストリームユーザーではなく特徴的な嗜好と思考を持ったユー ザーだった)の利用シーンを創作し、そこから何か斬新な問題解決を見出そうという流れになった。
 
同時に、自分の中では他のチームとは違った目線で大きくリフレーミングしてみることで、面白いアイデアを出してみようというマインドセットになっていた。
 
そのためか、他のチームの設定したペルソナを見ても「普通過ぎないか?自分に近すぎないか?」と否定的に受け止めて、ただ"遠いだけ"で共感できない存在の自分たちのペルソナこそが前回発見した問題
 
「食べる順番にこだわって最後に好きなフルーツを残して食べた」人と「何もこだわらず思いつくままに食べた」人の感情曲線の乖離
 
を解決し、斬新なアイデアを発想するのにふさわしいと完全に誤解してしまい、スタート時点から「状況に埋め込まれた学習」が始まっていた。最終的にはキャズムを広げるだけの結果になり、さらにジャンプも出来ていない状態に陥ってしまった。
 
【リフレクション】
  • 物事に取り組む際のマインドセットの間違いは大事故のもと。なにが目的かを自分に問うこと。
  • 自分たちだけが他と違うときは、たいてい自分たちが間違っていると思え。

【分析結果からの洞察・問題発見へ】
取り組みに対するマインドセットが強制発想のアイデアソンとごっちゃになってしまい、制約や前提条件を無視して進めてしまった。
 
共 感が出来ないペルソナゆえに想像を膨らます必要があり、それを満たすための「おしゃべり」が主な活動になり、ほとんど手を動かない「肯定と発散のブレスト の状態」に突入し、「洞察」ではなく「創作」に熱中してしまったことで、遊んでいるという印象を持たれてしまったことは、まったくもって講評のとおりで す。

【リフレクション】
  • ワークショップの大前提として、課題は「言われたとおりに」やること。
  • しゃべりすぎずに手を動かして、常にPostitで視覚化して議論すること。
  • 想像しやすいペルソナより、共感できないペルソナこそ、主観のみで形成されていると思え。
  • 特殊な利用状況、ブランドプレファスや、あまりにもパーソナルなゴールの絶対数の少ないペルソナでは「売れない」。
中 盤の先生からの厳しい指摘で、ペルソナ設定の誤りに加えて、そもそも前回「発見した問題」が「問題ではないのではないか?」とメンバー全員が気づいて自信 がなくなり、さらに中途半端な軌道修正を行ったことで思考の拠り所がなくなり、最後まで誤った方向へ進むことを止める人がいない「状況に埋め込まれた学 習」になってしまった。
 
【リフレクション】
  • ペルソナやシナリオに自分自身が共感できなければ、改善の取り組みに対しても当事者意識が薄れてしまう。
  • 状況をコントロールすべきはわずかながらでもUXについて学んできた自分だったと猛省。なにより同じ班の学生さんに申し訳なく思う。

【9コマシナリオの作成】
説得すべき相手に提示するの非常に役立つ手法だと思えるのにまったく活かせなかったことは、貴重な学びの機会を逃したと思えるので非常に悔やまれる。
 
【リフレクション】
  • 「問いを問い直す」姿勢を持ちながら物事を判断する。
  • 作り手の主観を入れ込まないで、あるある感を共感できるペルソナとコンテクストを作成する。
 
【プレゼンテーション】
結果的には自分たちが共感できない問題、自分たちが共感できないペルソナ、自分たちが共感できないシナリオのまとめになり、求められていた成果をまったく提示できていなかったのも発表結果のとおりです。
 
特に、「普段の仕事はどんなやり方で取り組んでいるのか?」という問いについてはまさに痛いところを突かれた。
 
販 社(または営業)からの「前のモデルより(コンペチターより)機能を増やせ」という要求に応えるためや、BtoBのロイヤルティの価格を毎年維持するため に増やし続けた「誰が使うのかわからない」機能を、とにかく急かされて「誰が使うのかよくわからないまま」世に送り出してきたてきたことが、この散々な発 表結果となって表れたのだろう。
 
前回の観察で問題があると設定した「食べる順番にこだわって最 後に好きなフルーツを残して食べた」人と「何もこだわらず思いつくままに食べた」人の感情曲線の乖離というのは、数少ないデータサンプルの中での「人間 の"一時的な"嗜好」の差異であって、長期利用品質として改善すべき問題ではなかったのかもしれない。結果的にコンテクストもインサイトもも成立せず、問 題改善の根拠にならなかったことから、そもそも問題の分析が甘かったとも考えられる。
 
その上で、「食べる順番にこだわって"満足した"ユーザーの体験を常態化させること」は、問題を改善することにはならないと省察できる。
 
…だが、それが前回の観察結果からの改善すべき問題として適切であったならば、目的なくゼリーを食べながらゆるゆると感情曲線が下がっていく「そもそもゼリーを食べることに価値を見出していない」ペルソナへの魅力的な体験価値の提供こそが問題解決だったのだろうか?
 
ペルソナとゼリーの最初の接点はコンビニでの購入ではなくても、何らかの理由で一度食べるという利用シーン(「会社で差し入れのゼリーを持って帰らされて、捨てるのももったいないので食後のデザートになんとなく食べた」とか)を設定して、そこで次回コンビニで見つけたときに購入したいと思える体験価値を提供できれば長期利用品質のゴールになりえたのか?
 
普段からあまり甘いものを食べないというペルソナなら、共感できつつも適切なエクストリームユーザーといえるのかも?
 
しかし、観察から発見されるサービス上の心理的・身体的な不快・不便の事象ではなく、感情曲線から読み取れるユーザーの嗜好に起因する事象は、問題として設定して説得力があるものなのか?「最後に一番食べたいものを残しておいたので嬉しい」という事象と紐付いて向上した感情曲線が、逆に問題の証明になるのか?
 
その問題はパッケージデザインで解決可能か?
  • そのペルソナが次にコンビニで見かけたそのゼリーを購入したいと思う動機付けや、継続して食べ続けるための体験価値の提供
  • どうありたいか、どう思われたいかというペルソナの思いに対しての共感しやすい体験価値の提供
  • 「このゼリーを買うと、あなたに良いことがあるよ」というメッセージが伝わるパッケージデザイン
  • 『ザク豆腐』のような、IPを活かした話題性のあるパッケージの形状としての価値
  • ペルソナにとってゼリーを食べることより魅力・価値のあるパッケージ
ゴールとしては、今後も継続してゼリーを食べたい(またはパッケージが欲しい)思うペルソナを増やせたことでコンビニでの売り上げにつながったことが長期利用品質のゴールになるのか?
 
プロトタイプはさておいてもう一度考えてみたものの、やっぱり行動観察がまったく活かされていないような…マインドセットがサービスの改善ではなく、商品企画や販売促進になっているのだろうか…それらも考え方やアプローチは基本的には同じなのか?…もう少し考え続けます。
 
他のグループの発表を見て思ったのは、やはりコンテクスト(利用シーン)の説得力が共感の度合いを左右する。
「な ぜゼリーを食べるにいたったか」というコンテクストが、行動観察から得た問題を「問題として正当化」させるためのコンテクストになりがちと感じたが、どの 程度まで許容されるのか加減がまだよく分からない。プロトペルソナということもあるが、最終的にクライアントを納得させる問題解決ができれば、あまり問題 にはならないのだろうか。
 
【リフレクション】
  • フレームワークの手順に沿って作業を進める場合は、一つ前の成果に誤りがないか常に問い直す。
  • 人間は日々成長し、価値観も変わっていく中での継続利用価値・長期利用品質を見出すためには「人間とはいかなるものか」という問いを持って日々観察する姿勢を持たなければならない。
  • 最終的には「儲かるのか」という合理性を常に考える。共感できる人が少なければ結局は「売れない」。
  • やるべきことが「できていない」のではなく、やりかたが「甘い」。甘さをなくすためには、やはり問いの質を上げるしかない。UXにおいては、すべては「問うこと」から始まるのだから。
  • そもそも「やるべきこと」をやり遂げる力のないまま「やりたいこと」をやったら間違いなく失敗する。「やりたいこと」ができるようになるために、普段の仕事や生活においてもUXや人との共感について考え続ける。

UX Kobeでも浅野先生の前で大失敗のプレゼンテーションを行い、鋭い指摘をいただいたことが「学びとは?」という問いを持つきっかけになった。…ただ、仕事でもここまでの失敗はなかなかないので、再び自分のレジリエンスが試されている…。
 
学生さんたちが今まで以上に積極的に観察していてくれたので、我々のグループの活動がどの様な流れで失敗したのかレポートを楽しみにしています。
 
自分にはセンスがないことを自覚しつつ、新たに得た「人間とはいかなるものか?」という問いを、これからは問い続けます。
 
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<10/17追記>
学生さんの観察や先生のコメントから見えたこと
 
<自分の「学びの態度」が未熟で幼稚すぎる>

●マッチングしない自分の知識を拠り所にして、自分の考えを正当化しようとしている。
 
●考えを否定されたり怒られるのが嫌で、分からないことを先生に聞くのを恐れている。

●分からなくなったら「立ち戻って考る」ではなく、日程を優先する仕事と同じように、「帳尻をあわせてとにかく終わらせる」という思考に切り替えている。
 
<課題に対してグループで取り組むことの良さがまったく生かせていない>

●ペルソナ作成時の密なコミュニケーションのポジティブな団結が、成果物を全否定された反動でどこまでもネガティブに切り替わり、最後まで前向きになれなかった。

●思考停止した自分のネガティブな発言も周囲に影響を与えていた。本当に申し訳なく、恥ずかしく思う。

●私は「自分が中心になって人を集める」ことができない。UXはひとりでは取り組めないので今後の大きな課題だ。

●『World War Z』を観た。ユダヤの10人目は「どんなに荒唐無稽でも"独自の仮説"で9人に反論しなければならない」つまり、常に問いを持って逆説を立てておかなければ10人目にはなれない。
 
<自分の振り返りの中でもいまだに「埋め込まれた学習」から抜け出せていない>

● ペルソナが「ゼリーを食べるに至る」には「ゼリーのもたらすサービス」が不可欠であって、そのサービス(の改善の機会)を「(だれもが共感できるように) 必要とする」ペルソナが今回のプロトペルソナとして成立する。「自衛隊が使うバンドエイド」の距離感がやっと分かった。

●「ゼリーのもたらすサービス」は観察時に使用したフルーツゼリーに限らない。コトを見ているつもりが、フルーツ、パッケージ、コンビニと、カタチを想像しやす いワードがバイアスになって視野が狭くなっている。結果、ゼリーのもたらすバリューによるサービスの本質まで踏み込んで考えられなかったので、アイデアが 広がらない。

●グループHの講評での「ゼリーで薬を包むと飲み込みやすい」という先生のアイデアを聞いて思うに、利用シーンも「デザートとしてのゼリー」という狭い視野でしか考えられていない。
 
●ゴールは問題を改善するためのパッケージを作ることではなく、発見した問題とペルソナを使って「持続可能なサービスを作る」こと。一時的なモノの改善ばかり考えるから長期利用品質が成立しない。
 
学生さんに「見られていること」から改めて振り返れることが多いので、本当にありがたいです。
同時に、学生の皆さんの加速度的に成長されておられる様子にうらやましさや怖さを感じます。
 
今回のワークショップの解とリフレクションはもう一度時間をかけて考えます。
今は外化することが目的になっていてリフレクションがまったく実践できていないので。
 
宮島敬右