UXKANSAI#02 オブザベーション(の主にゼリーを食べる観察について)
全然自覚はないのですが、先生から「ゼリーの達人」とご紹介にあずかりましたので、
当時の観察記録のブログ記事を紹介しておきます。
セミナー開始前に先生から「ひふみんアイ」についてお話いただき、今回は自分が参加者として取り組むのとは逆からの視点でみなさんのワークを見ることで、アドバイスするどころか省察の気づきをいただきました。
今回久々に受講者の目線でも被験者を観察してみましたが、経験者ゆえに「モノを見ないぞっ」という意識が強すぎると「ヒトの動作」にばかり焦点が向いてしまうというバイアスに陥っているように感じました。
行為を観察する時は「心を無にして観る」と「好奇心を持って観る」という精神状態をスムーズに行ったり来たりできるようになることを目指さなければと思いました。これは訓練しかないですね。
「なぜなぜ」を最低でも3回
何人かの方が調査シートの洞察の欄に清書として「〜だろうか?」「〜と思っている?」といった疑問文を書いておられましたが、立てた問いを疑問文に落とし込むだけだと、おそらく本人も気づかないうちに「主観的な仮説になってしまっている」ということに気づきました。
目の前の被験者がいるなら「なぜ?」をあと3回ほど投げかけるだけで、より本質的な思考・感情や、実現したいゴールが聞き出せるはずなので、洞察には疑問文を書くのではなく、「観察とインタビューで得た客観的な情報」を書くということを「自然に」できるようにならなきゃと改めて思いました。
ワークの観察と自分自身の観察の違い
久しぶりにワークでのゼリーの観察を体験すると、自分自身の観察記録との得られる情報の差に気づきました。
自分自身の観察の場合は、日常生活の中の利用状況における差異や、周囲の人間の関与も情報として得られるが、「UXの問題」とは関係のない「自分だけの問題」を切り分けにくい。あと、自分自身がモノを取り扱っているので、モノの問題にフォーカスしがち。
ワークでは複数人を対象に、異なる年代・性別の方の観察結果も得られるので、行為の背後にある「共通の問題」を見つけやすいが、特殊な状況ゆえに「UXの問題」と密接な実際の利用状況を想像しにくい。
過去の観察を読み返すと、1か月ゼリーを食べても「慣れればゼリーを開けるのと食べるのが上手くなる」という実感と、「ゼリーは"デザートなのに"食べるのに集中力と緊張を強いる」くらいの気づきしかなかったので、まだまだ洞察が甘かったなーと思いました。(モノの問題にばかり目が行っていたり、自分を観察しているのにもかかわらず洞察に疑問文ばかり書いてる…)
ただ、自分で観察記録に取り組んだことで、日常生活で何か問題を発見した時には、それは「UI(ユーザビリティ)の問題」なのか「UX(サービス)の問題」なのかを常に切り分けて考えるようになりました。(セミナーで刷り込まれた「利用状況」と「長期利用品質」も意識しつつ)
よかったらみなさんもやってみてください。
UX KANSAI 第一期を振り返る
- 博多で開催された第2回のUX Japan Forum 2015の懇親会で、その前日に浅野先生から 「来年は関西でJapan Forumやるから」 と仕切りを任されたリーダーの徳見さんに運営への参加を誘われたのがきっかけです。
- UX Kobe、UX Shiga の後でもう一回セミナーを受講しても同じ失敗をくりかえすだけで意味がないと思っていたのと、浅野先生のセミナーからはちょっと距離を取って外から見てみたいなあと考えていたので、その場で快諾しました。
- 今まで「利己的に」仕事一筋でやってきたので、運営を通じてUXにも通じる「利他的な活動」をやってみたかったというのも理由の一つでした。
- UX Shigaの最終回で浅野先生から「君はUXに向いてないからやめたほうがいい」とまで言われたのに完全に距離を置こうと思わなかったのは、UX Japan Forum 2015の締めにやはり浅野先生が参加者に向けておっしゃった「ここに来ている人は、未来を見つけに来てるんじゃないかな」という言葉が大きかったように思います。
- 運営でのはじめてのブレストで、付箋とプロッキーを使って意見を分類していく段取りを当たり前のように進める徳見さんをみて、実践する人はこういうことが自然にできるんだなぁ、今まで身近で協働したことのないUXの実践者と一緒に運営を進められるのは学びになるかもなぁと思いはじめて、モチベーションが上がっていったように思います。
- 多様な業種・職種のメンバーが、利害関係なく自主的に集まって運営できたので、まったくストレスを感じませんでした。各人の事情・思想・スキルを尊重しながらも、個々の活動や経験を持ち寄って互いに助け合える頼もしい方たちばかりだったので、スタッフ間の人間関係がとても円満でやりやすかったからです。
- 毎回のセミナーの運営とJapan Forum本番が近づくにつれて「受講者の満足(幸福)」について考えることが意識づけられ、やっと「ああ、これって運営を通じて自分もUXを実践しているんだなあ」という意識になりました(遅い)。
- それでも自分が参加者としてセミナーを受講していたときのような「辛さを感じる頑張り」をまったく感じなかったのは、周りの方が優秀だったからというのが非常に大きいですが、運営という立場は自分が「頑張らなくても学びを続けられる」やり方だったのかな、とも思います。(自分が発達できたかは自信がありませんが)
- 多様なバックグラウンドの受講者の方が多かったのも、モチベーションが続いた理由です。受講者のみなさんの熱気を感じ、UXという概念が関西でも幅広い分野で求められているというのを目の当たりにしたことで、おおげさですが社会的責任みたいなものを感じたのかもしれません。
- 過去に自分も経験しましたが、ワークショップの渦中に入ると「目的」や「何をやっているのか」を見失ってしまうんだなぁと、運営の立場で外から見ると本当に良くわかりました。先生が勧めるワーク中に他のチームを偵察する行為は客観的な視点を呼び戻すきっかけになるのかな、といまさらながら思いました。
- アウトプットを求められる当事者意識の「主観」と、「事実」というインプットから調査・分析を行うための「客観」を行ったり来たりする視座と精神のバランスの重要性を感じました。
- 精神といえば、やはり自身が健全な精神でなければUXという「人の幸せを考える」行為はより難しくなります。UX Shigaのころは先の見えない仕事や家庭の事情の悩みが積み重なり、精神状態が不安定だったのも「UXに向いていなかった」理由だと思います。心に余裕がなければ問いを立てる余裕も生まれないことを実感しました。
- 向き不向きは、やっぱりあります。実践力、求心力、洞察力、好奇心、探求心…。向いている人はやはり自分にはないセンスや地力を持っていることを、実践者の方と交流や運営の活動を進めていくことで実感しました。
- 自分の中で「UXは"正しいやり方"だから絶対に"正しい"」と思い込んでいました。会社においては「儲かるやり方が"正しい"」ということが真実であると、自身のこれまでの失敗を踏まえてよくわかりました。
- 運営内でワーク形式の打ち合わせを行った際、UXへの理解があるメンバー同士が経験や知識に基づいた共通言語で話すと、こんなにも発展的な議論ができて、打ち合わせがストレスなく円滑に進められるんだなあと感心しました。「UXの仕事をしたいなら、すでに実践している会社に転職せよ」というのは真実だと思いました。
- 相変わらず本業でUXを実践していないので、その面での変化や成長はないですが、運営としてJapan Forumで全国のUXコミュニティの方と交流できたことで、今後コミュニティをどう存続させて、社会から尊敬を集める存在にしていくかということに興味が出てきました。
- セミナーとUX Japan Forumを通じて、UXとは「会社においては儲かる仕組みを作ること」、「社会においては幸福度を向上させるための仕組みを作ること」であり、同時に「その仕組みが持続可能であること」と理解し、少し視野が広がりUXについての考え方が変わりました。
- 過去の自分は「UXは自分の仕事を進めるための "正しいやり方"である」という「手順」に固執するあまり、一歩間違えると前にも後ろにも進めなくなっていたんだなと気づきました。今回運営という立場でUXの一連の流れを俯瞰できたのは「構造」を学ぶ大変良い機会になりました。
- 自分の過去を振り返って「UXを学べば自分が変わる」のではなく、「自分が変わらなければUXを学んでも何も変わらない」んだなと気づきました。
- 仕事でユーザーのことを考えるときや、他のセミナーやワークショップに参加した時に耳元で浅野先生の声が聞こえるようになりました。(「……なぜ?……なぜ?……なぜ?……なぜ?……なぜ?…… 」)
- 中津は今まで縁がなかったのですが、通いたくなるお店が多いことを懇親会で学びました。
- ワークショップ中に受講者の方にあまり関与しなかったことです。運営であるという立場にとらわれていて(というかワークに参加しない気楽さから安心していて)、特に前半は観察するでもなくアドバイスするでもなくぼんやりしている時間が多かったのはもったいなかったなと反省しています。
- 参加者の入れ替わりでチームが持続せずワークショップの成果に影響を与えたのは大きな課題です。継続できるチームビルディングができるように、初回のワークショップに先んじて受講者に対する調査・分析が必要だと思いました。
- イベントにおいては運営側でうまくタイムマネジメントができませんでした。参加者が時間内にどんな行為をして、何を達成したいのかをよく観察していこうと思います。
- 成果発表後の質疑応答が活発にならず盛り上がらないのは関西人の気質とはいえ、運営としても何とかしたいところです。
- UX Shigaで「無知の知」を自覚し、UX KANSAIで「答えは無い」ことを知りました。UXに向いていなくても「人間とはいかなるものか」を考え、常に「問いを立てる」ことはこれからも続けていきます。
- 「向いていない人は、その人なりにUXの理解を深めて、向いている人の下でできることをやりましょう」という言葉は完全に腹落ちしました。卑屈にならず自分のできることをやっていこうと思います。
- そもそもですが、自分が「なぜUXを学びたいのか」を問い直していきたいと思います。また、受講者の方にも同じ問いをもって接していくことで、受講者がUXに何を求めているのか、コミュニティとしてどんな仕組みを作れるのかを考えていきたいと思います。
【UX SHIGA 第5回】 ─エスノグラフィとKA法
- インタビューにおいて、「事象・活動を聞き出す」だけになったこと(=インプットの質)が、時系列に並んだ事象・活動ごとの「個人的な問題」を解消するという結果(=アウトプットの質)になってしまい、課題である「最悪の旅」のサービス全体の問題を定義できなかった。
- インタビューの本来の目的は「ユーザーのゴールを聞き出すこと」であった。ゴールがはっきりしなければ、「なぜゴールに至らなかったか」という問いが立てられないので、サービスとしての改善案が出せなかった。
- 「インタビューイーは必ずサービスの受け手側である」という思い込みで作業を進めたことも失敗の原因だった。インタビューの内容からステークホルダーの関係性を把握して「サービスの提供側と顧客側を正しく設定する」ことも、ユーザーのゴールを明らかにするためのプロセスとして必要だと思った。
- 「木も見て、森も見る」という意識=「俯瞰で観る」ことで、多くの関係性や問題が見えてくる=問いが立てられるので、リフレーミングにつながる。
チームの人数が少なく、ゼリーの課題で大失敗した際に同じチームなった方が多かったので、「今回こそ失敗しない」という意思統一ができていたと同時に、社会人や学生という立場を超えて対等な議論ができた。また、写真の課題も全員が持ち寄れたので、士気の高い状態で課題に入れたことも、チームビルディングとしてはうまくいったように思う。
- 主観の発想に自信がないなら、構造化して考えてみよう
- チーム内でカードの内容を共感しやすくするために、書き方にはルールを設ける(太字で書く、価値が複数ある場合は順位をつけるなど)
- なんでも見た目に整理することから始めるのではなく、変化することをを前提とした混沌から「関係性」を見つけることを意識する
- グループの交わりを意識して視覚的に最大公約数を見つけ出すことが、傾向の発見につながる
- 傾向の発見を「俯瞰で観る」ことで問いを立てて、リフレーミングにつながる問いを発見する
【UXに求められるセンスとは】
「一万時間の法則」において、これからUXの専門家になるのは無理だということは理解していたが、前々回に浅野先生が私におっしゃられた「君はセンスがないねー」という言葉が、今回のビアバッシュで先生と会話できたことで腹落ちした。
【とはいうものの】
今後UXの専門家になることはないにしても、今回のワークショップを通じて学んだ4つの「身に着けたい態度」と「人を見る・世の中を見る」ことを日常から意識することは、デザイナーとして今後のクリエイティブな活動に必ず役立つと思うので継続していきたい。
学生さん向けのワークショップということで、UXの基礎的な知識や手法を学びたいと思って参加したのですが、全5回を通してUXに携わるにあたって必要とされる「態度」の形成と、業務に活かすための実践的な取り組みの姿勢が重要であるという学びを得られました。
【UX SHIGA 第4回】 ─エスノグラフィとCJM
- 業務を離れたところで社会とかかわり、好奇心をもって日常的に「人間を見る・世の中を見ていく」ことこそが、UXの「引き出しの多さ」になり、問いを立てて"自力で答えを求め続けていく"ことが、「おさまりの能力」を鍛えていくのだろう。
- 「調査やインタビューは今の会社の仕事の中ではやりたくてもできない、だから成長しない」というのは言い訳で、単に「甘い」だけだったと反省。
- 共感の態度をわかりやすく表示して、インタビューしながらもラポール形成を行う。
- インタビューしながらでもきちんとメモをとって、インタビューの構成と時間を計算する。
インタビューをするとなればインタビューについてだけ考え、「プロセスが明快なものを選べ」と言われれば「プロセスが明快なだけ」のものを選んでしまう。「自分は何を学びにここに来ているのか」という一番大きな問いを忘れて、いつも目の前の課題だけに取り組んでしまうのはなぜなのだろう?
浅野先生の指摘の一つ、「普段から"サービスとは何か"を意識していない」というのも大きい理由だと思うが、作業に取り掛かる前にチーム全員で「誰のために」、「何のために」(あるいは「誰が」、「何の目的で」)だけでも意識合わせや方針決めを行う時間が短時間でも必要なのではないかと思った。
その時間はチームの課題への取り組みの熱量を上げることや、「自分ごと」として取り組む意識の醸成にも役立つのではないか。前回はチームの作業でありながら、自分も含めて全員最初から最後まで「時間内に言われたことを言われた順にやらなければ」という意識だけで動いていように感じた。もしかするとこれまでのワークショップにも自発的にそういった「場」を作り、ファシリテーションする能力が求められていたのかもしれない。
また、個人的には作業に入ってしまうと「作業だけ」に没入してしまい、「何が目的かがわからないので、何をやっているのかわからなくなる」のが、いままでのワークショップの失敗につながっている。チームで作業するメリットは以前先生がおっしゃった「ユダヤ10人目の男」になる人が自分以外にいることだと思えるが、事前の「誰のために」、「何のために」という意識合わせがなければ、進む方向に違和感を覚えても「ユダヤ10人目の男」になるには相当勇気と自信がいるだろう。…でも、この考えは人のせいにしているようで、「甘い」と思えなくもない。
感情曲線については、先日参加したUX Japan Forumで登壇されたアクアリング 平野氏が実践されておられる「期待」と「不安」の感情の2本を描くというテクニックを、今後自分が取り組むときは取り入れたいと思った。「人間とはいかなるものか?」と考えた時、人間ゆえの「感情の矛盾」を把握しやすく、思いもよらない問題が発見できるのではないだろうか。
- 作業開始の前に、短時間でも意識合わせのコミュニケーションをとる場を作ってみる。
- 目の前のワークショップを完了することが目的ではなく、常にサービスの観点を持ってインプット・アウトプットを考える。
- 「ユーザー」が「サービス」を使うことによって得た体験が「UX」であることを忘れない!
約一ヶ月間ゼリーを食べ続けることでの学び
浅野先生からの勧めで、約1ヵ月ゼリーを職場や自宅、移動中の新幹線で食べて、サービスの問題点を見つけることに取り組んでみました。
スマホを操作しながら食べられないのは、今の時代にふさわしくないのでは?
おしゃべりや読書しながら食べられないのは、会社の昼休みのデザートにふさわしくないのでは?
そもそもゼリーってそんなに集中して食べるほどのデザートなのだろうか?
テンションが下がることについては、ゼリーに色が付いているだけで少し解消されているように思った。
- サービスとして、ヨーグルトのような「お腹によい」という分かりやすい機能性や、「朝に食べる」といった推奨できる食べ方の必然性がない。
- フルーツグラノーラやソースをかけるというヨーグルトのような「ユーザーカスタマイズ」の要素がまったく無い。
- サービスではなく、ゼリー全体の「量」や、フルーツの「量・種類」といった「モノ」だけが差別化の要因になっている。
【UX SHIGA 第3回】 ─調査の記述…ワークショップの再考
ワークショップでの失敗とそのリフレクション、またその後の皆さんの振り返りや先生のコメントなどをふまえて、もういちど一人でワークショップに取り組んでみました。
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行動観察からの発見した問題点やユーザーの声として、以下の内容に注目しました。
- 食べるのに時間がかかる
- 意外とお腹がいっぱいになる
- 男性はあまりデザートとして購入しない
- ゼリーはローカロリーだと思う
- フルーツゼリーは食物繊維が摂れそう
ゼリーを食べるシーンにおいて上記の問題を改善して、さらにゼリーを通じてより良いサービスを受けることが共感しやすいペルソナとして以下の人物を設定し、ワークショップの成果物である9コマシナリオを再度考えました。
【UX SHIGA 第3回】 ─調査の記述
【プロトペルソナの作成】
事 前の説明での「なるべく自分たちから遠い存在」という指示と、「"自衛隊"が使うバンドエイド」という例を深く考えずに受け取り、自分たちから自衛隊くら いまで遠くてもいいのか!と思いこんでしまった結果、エクストリームユーザー(実際にはエクストリームユーザーではなく特徴的な嗜好と思考を持ったユー ザーだった)の利用シーンを創作し、そこから何か斬新な問題解決を見出そうという流れになった。
- 物事に取り組む際のマインドセットの間違いは大事故のもと。なにが目的かを自分に問うこと。
- 自分たちだけが他と違うときは、たいてい自分たちが間違っていると思え。
【分析結果からの洞察・問題発見へ】
取り組みに対するマインドセットが強制発想のアイデアソンとごっちゃになってしまい、制約や前提条件を無視して進めてしまった。
【リフレクション】
- ワークショップの大前提として、課題は「言われたとおりに」やること。
- しゃべりすぎずに手を動かして、常にPostitで視覚化して議論すること。
- 想像しやすいペルソナより、共感できないペルソナこそ、主観のみで形成されていると思え。
- 特殊な利用状況、ブランドプレファスや、あまりにもパーソナルなゴールの絶対数の少ないペルソナでは「売れない」。
- ペルソナやシナリオに自分自身が共感できなければ、改善の取り組みに対しても当事者意識が薄れてしまう。
- 状況をコントロールすべきはわずかながらでもUXについて学んできた自分だったと猛省。なにより同じ班の学生さんに申し訳なく思う。
【9コマシナリオの作成】
説得すべき相手に提示するの非常に役立つ手法だと思えるのにまったく活かせなかったことは、貴重な学びの機会を逃したと思えるので非常に悔やまれる。
- 「問いを問い直す」姿勢を持ちながら物事を判断する。
- 作り手の主観を入れ込まないで、あるある感を共感できるペルソナとコンテクストを作成する。
結果的には自分たちが共感できない問題、自分たちが共感できないペルソナ、自分たちが共感できないシナリオのまとめになり、求められていた成果をまったく提示できていなかったのも発表結果のとおりです。
- そのペルソナが次にコンビニで見かけたそのゼリーを購入したいと思う動機付けや、継続して食べ続けるための体験価値の提供
- どうありたいか、どう思われたいかというペルソナの思いに対しての共感しやすい体験価値の提供
- 「このゼリーを買うと、あなたに良いことがあるよ」というメッセージが伝わるパッケージデザイン
- 『ザク豆腐』のような、IPを活かした話題性のあるパッケージの形状としての価値
- ペルソナにとってゼリーを食べることより魅力・価値のあるパッケージ
- フレームワークの手順に沿って作業を進める場合は、一つ前の成果に誤りがないか常に問い直す。
- 人間は日々成長し、価値観も変わっていく中での継続利用価値・長期利用品質を見出すためには「人間とはいかなるものか」という問いを持って日々観察する姿勢を持たなければならない。
- 最終的には「儲かるのか」という合理性を常に考える。共感できる人が少なければ結局は「売れない」。
- やるべきことが「できていない」のではなく、やりかたが「甘い」。甘さをなくすためには、やはり問いの質を上げるしかない。UXにおいては、すべては「問うこと」から始まるのだから。
- そもそも「やるべきこと」をやり遂げる力のないまま「やりたいこと」をやったら間違いなく失敗する。「やりたいこと」ができるようになるために、普段の仕事や生活においてもUXや人との共感について考え続ける。
UX Kobeでも浅野先生の前で大失敗のプレゼンテーションを行い、鋭い指摘をいただいたことが「学びとは?」という問いを持つきっかけになった。…ただ、仕事でもここまでの失敗はなかなかないので、再び自分のレジリエンスが試されている…。
●マッチングしない自分の知識を拠り所にして、自分の考えを正当化しようとしている。
●分からなくなったら「立ち戻って考る」ではなく、日程を優先する仕事と同じように、「帳尻をあわせてとにかく終わらせる」という思考に切り替えている。
●ペルソナ作成時の密なコミュニケーションのポジティブな団結が、成果物を全否定された反動でどこまでもネガティブに切り替わり、最後まで前向きになれなかった。
●思考停止した自分のネガティブな発言も周囲に影響を与えていた。本当に申し訳なく、恥ずかしく思う。
●私は「自分が中心になって人を集める」ことができない。UXはひとりでは取り組めないので今後の大きな課題だ。
●『World War Z』を観た。ユダヤの10人目は「どんなに荒唐無稽でも"独自の仮説"で9人に反論しなければならない」つまり、常に問いを持って逆説を立てておかなければ10人目にはなれない。
● ペルソナが「ゼリーを食べるに至る」には「ゼリーのもたらすサービス」が不可欠であって、そのサービス(の改善の機会)を「(だれもが共感できるように) 必要とする」ペルソナが今回のプロトペルソナとして成立する。「自衛隊が使うバンドエイド」の距離感がやっと分かった。
●「ゼリーのもたらすサービス」は観察時に使用したフルーツゼリーに限らない。コトを見ているつもりが、フルーツ、パッケージ、コンビニと、カタチを想像しやす いワードがバイアスになって視野が狭くなっている。結果、ゼリーのもたらすバリューによるサービスの本質まで踏み込んで考えられなかったので、アイデアが 広がらない。
●グループHの講評での「ゼリーで薬を包むと飲み込みやすい」という先生のアイデアを聞いて思うに、利用シーンも「デザートとしてのゼリー」という狭い視野でしか考えられていない。